『今、何処に居るの?』
「……大宮駅」

すぐ行くよ、という青空のような声。電話を切った後、とっくの昔に終電も通り過ぎた駅の前で、俺はぼんやりと佇んだ。
日中に比べれば静かな場所。冷えた外気に晒された肌は熱を帯びていて、息も今しがた整ったばかりだった。
正直、どうすれば良いのか判らないというのが本音だった。俺に千景が言った事、折原が言った事。整理し、限りなく客観的視点から見ても、誰が悪いのかと言われれば答えははっきりしている。
当然俺も、信じられねえ、有り得ねえ、胸糞悪い、と気分は落ち込んでいたが、それだけじゃない。とても大きな喪失感に見舞われ、特に寒い訳でも無いのにさっきから俺の身体は震えていた。唯一、千景を殴った右手だけがはっきりと熱を持っていた。
その手を持ち上げ、手首を額に当てる。感情に任せて出て来た事をほんの少しだけ悔みながら。
そうしている内に、俺の前で車が一台止まった。顔を挙げれば、後部座席から昨日の昼間に会った男が現れた。こいつが、正真正銘の、俺の恋人。
そんな証拠何処にも無いのに。

「シズちゃん」
「……」

眼を合わせる事が出来ず、しゃがみ込んだまま俺は視線を泳がせた。折原は全部判っているよ、とでも言うような、底が見えない微笑を湛えて俺に手を差し出す。その手が意味するものは理解出来たが、その手に縋り付けるほど、俺は落ちぶれてなんかない。
自力で立ち上がり、折原の手を避けようと一歩踏み出す。だが重心が動いた瞬間、身体が傾く。その感覚に驚いたのは他でもない俺で、予想以上に自分は身体も心も不安定になっていると自覚した時には、俺の身体は折原に支えられていた。

「大丈夫?」
「あ……」

初めて触れる感触はぬるくて、俺は血が熱くなったような錯覚を覚えて思わず折原の顔を凝視する。触れたのも初めてであれば、こんな至近距離で顔を合わせるのも初めてだ。初対面の時から一般の男よりも水準が高いのはなんとなく判っていたんだが、間近で見た折原の整った顔立ちにはぞっとした。自身で手入れをしているのかもしれないが、それを抜きにしたって限度があるし、眼を離せなくなる不思議な威圧感。そんな、奴の瞼が少しだけ降りたのを見て俺は我に返った。

「わ、……悪い」

自分より背の低い男にほぼ全体重を預けていた事を思い出して慌てて足に力を込めるが、その途中でまた腕に倒れ込む。今度は、背中に回された腕の明確な意思で。

「やっと戻ってきたね……シズちゃん」

抱き締められている体勢、耳元に吹き込まれる声に、羞恥を感じるより先に惑乱した俺は身体を固くする。見ず知らずの男にこんな事をされているなんて、と。俺と折原を結ぶ関係を忘れるくらいには、強く。

「っ……、や、」
「怖い?」

何を問われているのか判らず、ただ首を横に振った。折原は泣く子供をあやすように背中を撫でてくるが、その余りにも優しい手付きに更に身を縮ませる。

「お、おり、……はら……」
「……」

舌っ足らずな言葉を漏らせば、何故か押し黙って息を詰める。一度強く背を叩かれ、拘束が解けるが肩肘は張ったままだった。

「とりあえず、此処じゃ落ち着いて話も出来やしない」
「……何処か行くのか?」
「俺の家」

停車したままだった車に乗り込む折原の背中を見ながら、どうしようか逡巡し、躊躇いながらも中に続く。間に人ひとり分の隙間が空いているが、距離は感じなかった。折原側の窓を少しだけ見つめ、千景の残像を振り払うように強引に眼を伏せた。
埼玉と東京は隣り合っているとはいえ、当然それなりに距離がある。程良く空いている道路を移動しながら、小気味好い揺れと騒音に眠たくなってきた。シートに背中を預け、身体の強張りを解いた俺を横目で見ている折原に気付かなかったはずはなく、気まずさから俺はそのまま眠りに落ちる事で逃避を図った。


俺の横で微睡んでいた静雄は今は完全に寝入っていた。俺が髪に触れても全く起きる気配がない。静雄の事だから、俺と六条が街中を走り回って喧嘩していた時も心配して眠っていなかったのだろう。幼い寝顔には疲労感が見受けられた。

「……シズちゃん」

運転手に気付かれないレベルの小さな声で囁いても、静雄は全く反応しない。聞いて欲しい、応えて欲しいと願うなら肩をゆすって起こせば良いんだが、そうもいかない。
外見上は俺の知っている平和島静雄に変わりなかった。痛んだ金髪もそうだし、抜けるような白い肌も細い体躯も繊細な指先も。何処も違う所なんて見当たらず、少なからずそれには安堵していた。

仕事で一ヶ月間忙しかったのは本当の事だったが、静雄に連絡出来ないくらい秒刻みのスケジュールだったかと言えばそうじゃない。それをあえて連絡しなかったのは、静雄を焦らして向こうから電話かメールのひとつでも寄越すのを期待していたから。最初の一週間くらいは、「ああ、ツンツンしてるなあ」ぐらいしか思っていなかったが、二週間、三週間と経っても音沙汰が無いのは正直予想外で。我ながら、静雄が俺に惚れている自覚はある。熱帯夜を共にした後に暫く会えないかもと告げた時、静雄は心底驚いたような切なそうな表情を浮かべたのを覚えていたから、尚更。幾ら彼が意地っ張りと言っても限度があるだろうと。
そこで試しに新羅に連絡を入れた。静雄はどうしているんだ、と。俺に会えなくて苛々してる? と茶化せば、新羅は心底驚いたように早口に喋った。

『え? 知らないの?』

その言葉に不覚にも混乱した俺はすぐにどういう事だと告げる。

『君が知らないなら誰も知らないんじゃないかな』
「だから、何がさ」
『静雄なら此処最近……いや、もうひと月くらい、ずっと見ていないよ』
「……は?」

詳しく話を聞けば、静雄は俺が出掛けた後に新羅や門田と言った学生時代の友人と一緒に飲んで、それから会っていないらしい。インドア派の新羅だから見かけなかっただけかもしれないと思ったが、運び屋として割とアクティブに池袋を駆け巡るセルティですら、影すら見ていないらしい。セルティも最初こそは俺に会えない寂しさに不貞腐れて家に籠っているのかと楽観的に考えていたらしいが、上司である田中トムと後輩であるヴァローナが二人だけで歩いているのを見かけて驚いたと言っている。面識が無いので確認が取れなかったのだが、思い切って門田を伝って話を聞けば、静雄は数週間前に一日だけ無断欠勤し、その後は一身上の都合で長期の休みが欲しいと彼自身が連絡してきたらしい。

『僕も驚いたよ。割と几帳面で律儀な彼だからね、社会人としてそんな暴虎馮河な事をするなんて。やっと続きような職だったのに、クビになるかもしれない危険を冒してまで』

静雄の事に関しては自惚れの強い俺ですら、静雄が俺に会えない、それだけで仕事を休むなんて事は考えなかった。むしろ寂しさを紛らわす為に、自分を理解してくれる上司や後輩、友人に会う選択をするんじゃないかと。
仕事を早々に切り上げた俺はすぐに、今まで静雄からかけてくるまで待っていた画面を開く。不安が煽られ、急ぐ指に力が籠る。だけど、どれだけ電話をかけても静雄は出なかった。
これは不貞腐れているとか、突っぱねているという理由じゃない。もしそうなら、俺から連絡をすれば喜んで出るはず。

「っ……なんで、出ないんだよ……」

直感で可笑しいと思った俺は、残り三日はかかりそうだった仕事を一日で済ませて新宿に戻った。
オフィスに届いていた情報に目新しいものや興味の惹かれるものは余りなく、愛する人間たちは俺の居ない間も変わりない生活を送ったんだな……と、普段だったら満足するだろう。だが、取るに足らないような細かな情報を整理していくと、ほんの僅かに、恋人の手がかりになるようなものを発見した。

『最近、喧嘩人形を見かけないですね』
『ヤクザに埋められたんじゃね?』
『なんか誰も居場所知らないって』

というように直接的なものから、

『病院で超イケメン発見した! しかも二人! でも片方、バーテン服じゃなかったけど静雄さんに似てたなあ』
『なんか自販機がそのまま設置されていると逆に変な気分です』
『池袋ってこんな落ち着いたとこだったっけ』

示唆するようなものまで。
新羅の言葉は嘘じゃなく、静雄は本当にこのひと月の間、池袋から姿を消したらしい。
失踪。
この二文字がちらついて離れない俺は、全く関係無い掲示板のひとつのレスを見てスクロールが止まった。

『よく来てたTO羅丸のリーダーって結局埼玉に帰ったの?』

このレスの日付はほんの数分前。リアルタイムで進むチャット状態の掲示板に、俺は適当なHNをつけてコメントをした。

『あの人って何時頃から見かけなくなりましたっけ』

と、軽い調子で打ち込むと、すぐに返事が返ってきた。

『うーん、月初めの時は確か居ましたよぅ。いっつも女の子連れてましたから、ひょっとして修羅場に巻き込まれてちゃったのかも! 知らないけどねー(o^∀^)o』
『あー俺、あいつ最後に見たの確か一ヶ月くらい前ですよー。でも女なんか連れてなかったっすよ』
『>>486 ひょっとして私と同じ現場に居たのかな! なんか慌てた感じで道を往復してましたよーノシ』

俺はそこでパソコンの画面から視線をずらし、携帯でとあるツテに連絡を入れた。報酬の額を言うと即座に男は口を割った。

『居ましたよ、丁度ひと月くらい前に、平和島静雄似……いやむしろ本人だと思いますけどねえ、それが、病院に。あたしも疑っちゃあ居たんですけど、ありゃあ間違いなく本人ですよ。何の症状かは知らないですが三日ほど入院したそうで。一応下の奴に玄関から出て来た所を撮らせましたけど』
「すぐ何時ものアドレスにお願いします」
『勿論です。それにしてもどうしたんですかねえ……あんたが、犬猿の仲である平和島静雄の情報で、後手に回るなんて。情報は鮮度が大事なのに、もうひと月前の事を、あんたは今更蒸し返す……くく』

皮肉を織り交ぜた言葉を投げ捨てて男は電話を切った。腹立たしくもあったが、全く持ってその通りだった。俺が、静雄の事で、後手になる。これほどの敗北は無いだろう。俺はメール画面を開き、送られてきた解像度の悪い写真に眼を留め、……そして見開く。
そこにはバーテン服ではなく私服に身を包んだ静雄と、他でもない、六条千景が映っていた。整理すれば事の顛末は容易に想像できた。現在静雄は、六条の所に居る。過程は問題ではない、重要なのはその結果だ。来神の友人や上司の所ならまだ理解も我慢も出来たが、何で、よりにもよってこの餓鬼なんだ? この男は、前々から俺の静雄にちょっかいを出して、明確に好意を持っていた。所有物を横取りされるのは尋常じゃない屈辱感と憤怒、苛立ちを感じる。改めて静雄への独占欲を認識した俺はコートを羽織って仕事疲れなど感じさせないくらいの急ぎ足で埼玉まで急ぐ事になる。余りに急ぎ過ぎて、静雄が記憶喪失になっているなんていう極めて滑稽で重要な話に耳を傾けないくらいだった。


「シズちゃん起きて」
「ん……」

ようやく俺のマンションまで到着し、横で眠っていた静雄を揺り起こした。暫くはぼんやりと緩慢な動作を見せていたが、自分が置かれている状況を思い出したのか慌てて車から降りる。
屋上が見えない高級マンションを見上げて口をぽかんと開けている静雄を引っ張り、エントランスでセキュリティを解除する。毛足の長い絨毯に戸惑っているような素振りに、自分が雰囲気に呑まれ場違いなんじゃないかと不安がっている姿は、平素の彼からは想像出来なくて思わず笑みを作る。

「此処……お前のマンションか?」
「自宅兼、事務所ってとこかな。職業柄、敵を作りやすいからね」

俺の部屋まで連れて行くとソファに座らせる。もう数え切れないくらい此処に出入りし、キス以上の事もしていたというのに、まるで知らない場所に放り込まれた子供のように視線を動かし、落ち着きがない。
一先ずそのままにしておき、自分の分の珈琲と静雄のホットミルクを作って持っていく。出されたカップに静雄は不思議そうな眼を俺に向けてきた。

「どうしたの?」
「……ホットミルクとか、飲んだこと……」
「あるよ、シズちゃんは。此処に来ると大体飲みたいって言うんだよ。でね、疲れている時には少しレモン。ほっとしたい時には蜂蜜を入れてあげると何時も喜ぶの」
「ふうん……?」

疑問符を浮かべながら、恐る恐るという体でカップに口を付ける。こくりと鳴った喉を見ていたら、静雄は口を離してぽつりと言った。

「美味い」
「でしょ。俺ほどシズちゃんの好みとか趣向を知ってる奴は居ないよ」
「甘さとか丁度良い」
「何回も作ってあげてるから。甘いのは好きだけど単に砂糖が入ってるだけの奴は嫌いでしょ?」

自信を持ってそう言えば、静雄は眼を丸くし、そしてゆっくり頷く。なんでそんなに俺の事を知っているんだ、と顔に書いてあるのを見て俺は隣に座る。さっきまでだったらびくっと身体を震わせていたはずなのに、警戒心を解いたのか、傍に寄っても無垢な表情を向けたまま。

「シズちゃんの事ならなんでも知ってるよ。むしろ、俺が一番知ってる」
「……千景から聞いた」

静雄にバレないレベルで俺は少し意外そうな顔を作る。今のこの状況だから、俺から話を振らないと喋らないと思っていたからだ。とはいえ、向こうから切り出してくれたのなら少しは俺を信用しているという事なのだから、乗らない手は無い。居住まいを正してから本題に入った。

「俺と……あんたは、付き合ってたって」
「過去形じゃないよ。現在進行形ね。彼、正直に言ったんだ」

もう少しじたばたするかな、とも思っていたんだけど、外れたか。六条の中でも葛藤はあっただろうから。静雄も六条も根が善人だから、人を騙し続ける労力に耐えられないんだろう。だけど俺は違う。奪われたものは力づくでも奪い返す。静雄を奪うか、奪われるか。俺はその勝負に勝ったんだ。

「まだ明け方だからあれだけど、夜が明けたらシズちゃんの知り合い呼んであげるよ。何か思い出すかもしれないし。あ、とりあえず俺らが明確に知り合いだって証拠が欲しいなら、卒アルでも見せてあげるし」
「……いや、良い」

上機嫌に喋る俺に、静雄は名前の通り、静かにそう呟く。てっきりどうあっても、何らかの形で証明して欲しいって言うかと思ったのに。しかし落ち込んでいるとかそういう訳ではなく、ゆっくりとホットミルクを口にしている。哀愁の漂うその横顔に思わず、本当に無意識に、静雄の頬にキスしていた。

「っわ……」

油断していたのか、明らかに狼狽した声が上がる。かっと染まった顔、初々しいその反応が懐かしくて、静雄の手からカップを奪って机に置き、ぐっと身体を引き寄せて唇にキスをする。俺は忘れていない、この唇に六条が触れていた事を。塗り潰すように舌で愛撫し、両肩を抑えつけてソファの背凭れに押し付けた。苦しそうに眼をぎゅっと閉じる静雄は身体に力が入らないのか手を虚空に彷徨わせている。

「っは、ぁ……」
「シズちゃん……」

俺以外の男を赦した唇。それと同じくらい、真っ赤に染まった顔を視線で舐め、余裕の無い振りをして何度も何度も口付ける。時には角度を変えて、時間もまちまちで。一ヶ月ぶりに交わすキスは俺から理性を剥ぎ取り、流石に何も知らない静雄に深い口付けをしたら驚くだろうから触れるだけで抑えよう、と思っていた自重を忘れて舌でエナメル質を絡め取る。いきなり入ってきた舌に静雄は驚き、戸惑い、ようやく必死に俺を引き剥がそうとするが、俺はそんなものじゃ抑えつけられない。

「ん、んんっ、ぅ……」

漏れ出た声に煽られて、水音を立てながら舌で舌を追う。涙の膜を張る静雄に唇を離すと、眼の前で激しく呼吸を繰り返す。その反応を見るに、六条とは触れるだけのキスしかしなかったのだろう。それが判ると少しだけ安心出来、弾んだ息でそんな事を考えながら、俺は白い首筋に顔を埋めた。

「……っ!」

ぎくっと身を引くような動作を見せる静雄だが、背後はすぐに背凭れなので全く意味が無い。この状況に混乱している静雄の意見を尊重しようなんて紳士な考えは出来ず、こういうのは多少強引な方が良いと考えを改めた俺は何度も舐めた事がある首元に舌を這わせ、右手だけでボタンを外し始める。

「う、あ、や、やめ」
「本当に嫌なら抵抗して」

そう言うと、静雄は真っ赤になった顔でどうすれば良いのか思案しているようだった。やめて欲しいなら、その化け物染みた膂力で俺を突き飛ばせば良いのに。こういう言い方をすれば、静雄は力が出せない。経験上知っている俺と、自分の事すら判っていない静雄。どちらが優位かは考えなくても判る事で。

「や……だ……」
「ならなんで抵抗しないのさ。シズちゃん……判ってるんじゃないの?」
「っ……! た、たの、む。やめて……くれ、折原……」

ふとその言葉に意識が向く。俺が顔を上げた事に少し安堵、ほんの少しだけ名残惜しそうな表情をしている静雄だが、俺はそれを見て喜ぶどころか露骨に嫌そうな顔をした。

「どうして……」
「あ……?」
「あいつの事は名前呼びなのに俺は名字なの? 元々、臨也って呼んでたのに。ねえ」

静雄は明らかに、そんな事言われても、という顔をする。そして苦しそうにその顔を背け、少し上擦った声で言った。

「な、なんか、変……なんだよっ」
「……? 何が?」
「ち……千景とキス、……した時は、なんか安心出来たっつーか、落ち着いたのに……お前とすると、逆で……身体が熱くなって、心臓が痛ぇんだよ」
「……それって、さ。少なからず俺のキスで興奮してるんじゃないの? シズちゃん、俺とキスすると何時も真っ赤になって余裕失くして、その癖、キスやめると物欲しそうにするし。記憶無い状態でもそんな風になっちゃうんだね」

記憶がある状態の彼にそんな事を言ったら今頃、投げ飛ばされているかもしれないが、今なら大丈夫だろう。
つらつらと恥ずかしい事を言った俺に静雄は信じられないような眼差しを向けてくるが、俺はにっこりと笑って額を合わせる。

「ねえ、呼んでよ……臨也って」
「う……」
「恋人なんだからさ、他人行儀なのはやめて」

精一杯、静雄を安心させようとする俺の微笑だったが、彼は俺を上目遣いで見て、そしてふいと視線を逸らす。

「んな、事……判んねえだろっ……」
「恋人、って事が? 信じられないなら、やっぱり皆を連れてきて……」
「そんなんじゃねえよ!」

大声ではないが、十分に響く声で静雄が叫び、俺は眼を見開いた。静雄は今にも零れ落ちそうなほどに涙を溜めて睫毛を震わせる。眼だけでなく、身体全体も。

「千景が嘘吐いてんなら、お前だって嘘吐いてる可能性だってあるじゃねえか!」
「言ったでしょ、俺はシズちゃんに嘘なんか吐かない」
「理由にならねえ。お前が連れてくるっていう連中だって、お前に口裏合わせてるだけかもしれねえだろ! 今まで信じてたもん覆されたってのに、次にお前をすんなり信じられるくらい俺は単純じゃねえ。お前も千景も実はグルで俺を騙して楽しんでたって事だってあるかもしれねえのに!」

千景、と言葉にした途端、静雄の目尻から涙が伝った。滅多に見れる事の無い、喧嘩人形の弱い涙。興奮が収まらないのか矢継ぎ早に言葉を捲くし立てる。

「それに、本当は千景の方が正しくて、何かお前が千景を強請るような事を言って千景が嘘を吐いたって嘘吐いたのかもしれねえし!」
「……」
「判断材料がねえから、俺はどっちを信じりゃ良いのか、むしろ二人とも信じねえ方が良いのかもしれねえだろ! お前が善人なのか極悪人なのかも俺は知らねえし、知らねえ、のに!」

肩を上下させる静雄に俺はただ、見つめていた。彼が吐き出す混乱や胸を締めつける窮屈さ。癇癪を起こした子供というよりは、積年の心情を告白する青い人。頬を流れる雫は静雄の感情をダイレクトに伝えてくる。喉に突っ掛かり、彼を蝕む。自分の立ち位置が判らない静雄が迷子のように何かを頼る。無意識にでも探しているのは、俺。折原臨也だというのに。
静雄は袖で涙を拭い顔を隠しながら、今までの怒鳴り声が嘘だったかのように、か細い声で囁いた。先ほど八つ当たりのように吐き出され、そして切られた言葉の、続きを。

「なのに、……っ、俺は判るんだ、お前が……嘘吐いてないって……」
「っ……!」
「理由なんて判んねえけど判っちまったんだよ! お前が俺を好きだって事も、俺がお前を好きだって事も、何にも覚えてねえけど判るんだよ、なんでだよっ……俺はなんでったって、お前の言葉に何一つ違和感を感じる事が出来ねえんだ……これじゃ……千景を……千景が……!」

どうもまだ、シズちゃんの中で六条の存在が引っかかっているんだ。そう思いながらも、俺は切羽詰まった想いで泣き崩れる静雄を抱き締めた。頭を抱えるように、心臓の音が聞こえるように。静雄はまるで母親に縋り付くように俺の背中に腕を回してしっかりと抱き締め返してくれた。その腕には戸惑いや不安こそあれ、躊躇いや迷いは一切無かった。やっと、俺の所に、君は、

「シズちゃん……シズちゃん」

しゃくり上げながら、静雄は俺を見上げながら言う。

「っ……い、……臨也……」

ぎこちなく言われた名前はまだまだ、「音が違う」。俺を完全に恋人だと割り切れていない声だ。でも、今はまだこれでも良い。シズちゃんが俺を信じてくれるだけで。俺の所に帰ってきてくれただけで。
ぼろぼろと今までに無いくらいとめどなく涙を落とす静雄を愛おしげに見つめ、

「好きだよ」

と短く言う。

「お、俺は……判んねえ……」

まだ己の中の感情を整理出来ていない静雄は、苦しそうに眼を伏せながら呟く。透き通った蜂蜜色の髪に指を通しながら、再び額をこつんと合わせた。

「何時か、判るよ」
「……本当か?」
「本当。もし、判らなかったとしても……俺は過去のシズちゃんより、今のシズちゃんを選ぶよ。だってどっちのシズちゃんも、俺を好きになってくれるって思ってるからね」

一度軽く口付けて、泣き疲れて肢体を投げだす静雄を抱き締めてゆっくりと撫でる。体位を入れ替えて、ソファに凭れる俺の上に静雄が乗る形で。俺の肩口に額を当て、小さく丸まる静雄にどうしようもなく愛しさが沸き上がってきて、片時も離すまいと腕の力を増す。今度はもう、俺の居ぬ間に消えてしまわぬように。

「ぅ……ん……」
「寝ても、良いよ。疲れてるでしょ」
「……ごめん……臨也」

さっきよりも、より正確に、力強く発音してくれる。嬉しくてふふ、と声を漏らすと、やっと心の底から安らいでくれたのか、此処に来てから初めて微笑を浮かべた。久方ぶりに見る破壊力に欲情しそうになる本能を無理矢理押さえつけていると、静雄が俺の服を遠慮がちに掴んで眼を伏せる。可愛いなあ、と思っていたらその口から恐ろしい事を言い出した。

「……起きたら、千景のところに行く」
「は?」

思わず上体を起こしかけたが、静雄は眠そうな柔らかな声で続けた。

「あいつにも……ちゃんと伝えたい。頬、引っ叩いて此処まで来たから……謝りたいし……中途半端なのは嫌だ……」
「……しょうがないなあ」

しかし天敵ともいえる前科持ちの恋敵のところに恋人をむざむざ行かせるほどに俺は甘くは無いので、

「その代わり」
「?」
「俺のところに帰ってくること。シズちゃんの足で、意思で」

そう条件を出すと、少し迷ったようだが、頭が縦に動いた。了承してくれたらしい。
そのまますぐに意識を手放した静雄の髪を撫でながら、僅かに昇った朝陽に眼を向けた。太陽なんかよりも柔らかくて美しくて愛しいこの温もりを、今はただ抱き締めて居たいと。


「お帰り、シズちゃん……愛してるよ」


夢で誰かがそう言っ