「折り返した方が良いか」
言いながら俺は千景の手から携帯を取ろうとしたが、本人は何故か血相を変えて片手で折り畳む。その視線は俺を見ておらず、見開かれた眼は落ちていた。吃驚しながらも千景の行動理由が判らない俺は首を傾げる事しか出来なかった。
「千景、どうした?」
「……」
普段、馬鹿みたいに饒舌な千景の無言。それだけで俺は十分に嫌な予感を感じ、千景の動向を伺う。ぎり、と音がするくらいに俺の携帯を握り締め、やがて言葉を見つけ出したのか、初めて聞く無愛想な声が俺の耳に届いた。
「駄目だ」
「……千景?」
「駄目なんだ、静雄、こいつは嫌な奴だから、電話しなくて良い」
「え……? でもこれだけかけてくるんだから、俺に用があるんだろ? 対応は出来ねえけど、今の状況を説明するだけでも……」
即座に首を横に振られる。千景の言動から、大量に着信がある「オリハライザヤ」という奴(多分だけど、男)を快く思ってはいないらしい。しかし、不快を感じるという事は、俺のアドレス帳に登録されているだけでなく千景もこの男を知っているはずだ。記憶は無くても、俺は自分の周りに人が溢れていたなんて思っていない。昔から嫌われ者だったから、友人は多くはないはず。その内のひとりを「嫌な奴」と言うのだから、興味が向くのは仕方が無い事だ。
「どんな奴? 知ってんのか?」
「ん……俺はそこまで深くは知ってねえけどよ。こいつだけは駄目だ、静雄を……傷付ける」
千景なりに言葉を選んだのだろうか、歯切れが悪い。明るく人当たりの良い千景が此処まで嫌うのだから捻くれた人物なのかもしれない。でも少なからずアドレス帳に入っていたのだから、俺との交流はあったはず。疎遠な友人、又は俺自身が良く思っていない人物にしてはこの着信の回数は有り得無く、そして仮にそうだとしても千景の反応は穏やかじゃない。
何も覚えていないから確証は持てないが、恐らくこの男は俺にとってとても近しい人物なのだろう。その割には、池袋から去ってひと月を過ぎた今頃になって連続で連絡してくるのは不思議だった。
「えっと……俺の友達かなんかなのか?」
「高校時代の同窓生。そんだけだ、って静雄も言ってたじゃねえか……って、あ、ごめん!」
ぱっと顔を上げて千景が俺に詫びを入れるが、特に気にならなかったので手を振って制す。事実は確かめようがないが、単に千景とソリが合わない人物なだけかもしれない。それこそ根暗だとか、女に暴力振るうとか。着信の量には驚きと違和感を覚えながらも、千景の沈んだ表情を見るのが俺の罪悪感を刺激するので強引に話題を変えた。
「そういやさ、卵さっきので切らしちまったから買ってくるよ」
「ふぇ? 牛乳も確か無かったんじゃなかったか?」
「あ、そうかも。……一緒に行くか?」
ぎこちなく、それでも精一杯笑ってみせれば、千景が一瞬ぽかんと口を開けた。俺から何かを誘った事が初めてだったからだ。
当の俺も、誰かに自分から話を持ちかけるのは照れ臭く、そしてそれが「恋人だ」と名乗る男に告げるなら尚更。最初は同性という事もあって心底驚いたが、冗談とも思えなかったし、嫌がらせでこんな事出来る訳ない。それに、俺が好きだ、と告げる千景の言葉には嘘は無い。それは記憶の無い俺でもよく判った。だから戸惑いながらも、千景を受け入れたんだ。
「ああ、行こうぜ。ついでに昼飯もリッチに外食しようか」
「おう」
実に嬉しそうな顔で千景はそう言う。つられて微笑むと、息を呑むような音が聞こえたと思ったら腕を引かれて抱き締められる。そのまま自然な動作でソファに押し付けられ、大人びた顔が近付いて口付けられる。こればかりは何度交わしても慣れる事はなく、そして俺にとってキスは好きな奴とするもの、と分類している。千景の事は好きだけど、友情なのか恋愛なのかいまいち判らない。でも俺たちは恋人なんだから拒否するのも……憚られる。
「……んっ」
そんな中途半端な気持ちでも、キスすれば暖かな気分になって、幸福感が満たされるというのは自覚していた。赤くなった顔でぽけっと千景を見上げると、なんだか複雑な表情で見つめられた。
「静雄ってキス好きだよな」
「な、ばっ」
「でも俺の事はもっと好きだろ?」
「っ……なんでそんな歯の浮くような台詞ぺらぺら喋れンだよ……」
記憶が戻ったとして、千景を恋愛対象として見られるようになったとしても俺はとてもそんな事は言えないだろう。好意を伝えるのも伝えられるのも慣れていないし、強い羞恥も感じる。恋愛だけじゃなく、人との関わりには奥手で受け身な俺には、強く押せる千景が同じ男として少しばかり羨ましい気もした。
「なんでって……静雄が大好きだからに決まってんよ」
「……判った。お前はそういう奴なんだな」
諦めて肩を竦めると、それを勝利と受け取ったらしい千景が誇らしげに胸を張る。未だ俺は、千景に好きとは言っていなかった。それは記憶が戻ってから、正式に言いたい。俺の記憶が戻るなんて保証は何処にも無いし、手探りで色んな情報に触れる俺は毎日が不安で堪らない。こんな状態じゃまともに働けないからと上司と後輩(だと千景が教えてくれた人)に断って長期の休暇を貰っている。
千景は遅くても、ゆっくりでも構わないから少しずつ思い出せば良いと言ってくれる。でも俺は、不安なんだ。自分が判らず、誰も判らない。今が。
「ほら、出掛けンだから準備しろ、顔洗って歯磨け」
「静雄ってどっちかっていうと主夫……っつーかお母さんみたいだな」
「なんか言ったか?」
俺の凄みを聞いた千景はそそくさと洗面所に消えていく。顔は笑っていたから単に面白がっているだけだろう。
着替えを済ませた俺と千景が並んで外に出る。玄関にバイクが置いてあったが、「静雄と歩きたい」と言って今日は徒歩だ。朝食が遅かった為に、昼に近い刻限となった休日の都会は喧騒で満ちている。近場の百貨店に入って買い物籠を取ると、一瞬で千景に奪われる。にんまりとした表情から何が言いたいのかは判る。判るんだが。
「良いって、俺のが年上なんだぞ」
「ムードがあるじゃんか。これは俺の仕事だ! 的な」
「ついでに言うと俺の方がお前の一万倍くらい力があるんだが」
「痛いとこを突くな……まあ気にすんなって」
でも俺にもプライドはある。年下で自分より背の低い千景に荷物を持たせるのも居心地が悪いんだが、是が非でもこうしたいらしいから放っておく事にした。さっさと前を歩く俺に調子の良い事を言いながら千景が追い縋る。
「しーずーおー」
「うっせえ、荷物持ち」
「ぐ……。とりあえず牛乳買おうぜ。下に重いものな」
流石に一人暮らししているお陰か、パンを一番下に敷く事は無さそうで安心した。夕食を何にするかで僅かに揉めたが、じゃんけんの結果、千景の希望するカレーになった。切って煮込んでルウを入れるだけの実に簡単な料理だが、半ば居候させて貰っている身なのでもう少し工夫したものを作ってやりたい。そう考え、きんぴらごぼうでも追加しようと千景にバレないように籠に材料を放り込んだ。
それから諸々の物を購入すれば、久しぶりの買い物だっただけあって盛り上がった袋が三つ。すかさず二つ持とうとした俺を制して勝ち誇ったような顔をされる。
「お前な……」
「いーのいーの」
千景の邪気の無い顔を見ていると、何処かほっとする。呆れるように苦笑した俺に千景は笑いかけ、街中を歩きだした。
「昼は何が良い?」
「んーそうだな……ハンバーガーって気分じゃねえし。でも米もなぁ……パスタとか?」
「あ、なら良いイタ飯のとこ知ってるぜ。何しろ店長が女だしな!」
「基準が可笑しいぞ」
俺が吹き出しながらつっこみを入れれば、千景は指先でストローハットを直しながら意気揚々と語り始めた。
「なに、店の責任者、またはウェイトレスが女性か否かは重要なポイントだぞ! 野郎が作って野郎が運んできた料理とレディの白魚の手で触れられた料理、静雄はどっちが食べたい!」
「……何処からつっこめば良いんだ。とりあえず、ウェイトレスは全員女だ。男はウェイター」
「うお、そうだったな。でも男は男でも、静雄だったら何でも喰うぞ、俺は」
「……んー、もう黙って良いか」
「良くねえええ! ひっでえなあ静雄は……折角、」
そこで、かなり不自然に千景が言葉を切った。音の余韻を追いかけて振り返ると、千景は雑踏の中のある一点を凝視していた。俺も同じ方向に視線を向けるが特に何も無い。人でごった返しているだけだ。知り合いでも見つけたのだろうかと問おうと、再度振り向こうとすると同時に、袋を持っていない手がいきなり握られた。
「あ!?」
「静雄、こっち! 走れ!」
有無を言わさず千景が走り出し、引っ張られる俺も人の波をかきわけるような形で進む破目になる。冷静に考えれば迷惑極まりない行為で、現に何人かぶつかった人物からは不快の眼で見られた。しかし一人一人に頭を下げる時間など無く、ただ俺は自分を引っ張る男の背中に向かって叫ぶ事すらままならない。
「ち、かげっ……何が」
「良いから走れ!」
土地勘を活かして千景は、まるで何かから逃げるように狭い路地を通って追走者を撒こうといった動きを取る。訳が判らない俺は操り人形のようにただ足だけを動かし……そして別の通りに出たところでようやく千景が足を止めた。お互いに全力疾走に近い体力の消費だったので暫くは会話も無く、呼吸が落ち着いてくると千景は何かを探すようにしきりに首を動かす。その動作から、やっぱり誰かから逃げようとしたんだと気付いた。
「一体、何、……なんなんだよ」
「ご、め……ちょっと、な。ひと」
また、千景の言葉が途切れる。しかし違和感を感じたのはその言葉が終わるよりも先で、この人の洪水の中でも判る異質を感じ取ったんだった。その異質がある方に焦点を合わせる。人目見ただけで「違う」と言わしめる存在感。黒髪、黒い服。その男は、無表情で俺に射抜くような視線を浴びせて来た。せり上がってきたのは、形容しがたい、寒気。
「……見つけた」
男は息一つ乱さず、透き通るようで、よく通る声で呟く。この雑踏の中でも俺の耳にすんなり入ってきた。特別声が大きい訳でもないのに、抵抗ひとつせず、はっきりと。
「……?」
とはいえ、俺はこの男を全く知らない。千景の知り合いだろうかと、斜め後ろに居た連れに振り返ろうとしたが、その前に黒髪の男は先ほどよりも声を張り上げた。この微妙な距離感で言うには、些か場違いな程に冷たく静かな音で。
「シズちゃんさ……なんでその餓鬼と一緒なの?」
「っ、……?」
「俺がずっと連絡しなかったの拗ねてる訳? ちょっと焦らしただけなのに。だからってさあー、電話全部無視する事ないじゃない。それだけならまだ赦してあげるけどさ……。どうしてそいつと一緒に俺から逃げたの?」
何を言われているのか半分も理解出来なかった。「シズちゃん」、とは俺の事だろうか。俺の名前は平和島静雄だから、あながち見当違いなあだ名という訳ではないが、こんな親しげに話しかける友人など居たのか、と若干自分に驚いた。混乱する頭で情報を整理していると、何も言わない俺に苛立ったのか、男は美麗な顔を歪ませ台無しにする。
「とりあえずそいつから離れなよ。君も性懲りもなくシズちゃんを狙ってたんだねえ。でも残念ながらその男は俺のだからさ、返して貰えるかな。あげた覚えは無いけど」
「なに、言って……」
俺の呟きは双方ともに聞き取れなかったらしく、男と千景へ交互に視線を送る。千景はまるで親の敵に出会ったかのように男を睨み付け、歯を食い縛っていた。黙して動かない俺たちに、男が荒々しく近付いてきた。
そこでようやく千景が動き、俺と男の間に割って入る。まるで俺を庇うような立ち位置に眼を丸くして千景の背中を見つめる。
「退いてよ、六条千景君」
「そりゃあ出来ねえ相談だな、折原臨也。あんたはもう静雄をどうこうする資格なんてねえ」
「どういう意味かな」
「そのまんまだ。静雄が大変な時にあんたは居なかった。今更のこのこ出てきて、随分と都合の良い事言ってんじゃねえか」
街中で睨み合う二人に通行人の何人かが不思議そうな視線を送っている。今の所は立ち止まってまで見ようとしている者はいない。だが、中には千景がとある暴走族の頭である事を知っている奴も居るのか、声高に千景の名前が聞こえて来た。そちらに気を取られていた俺は、二人の会話をほとんど聞いていなかった。
「なにそれ。君、往生際が悪いとは思ってたけど此処までとは知らなかったなあ。そんなに好きだったの? シズちゃんの事……諦めきれないくらいに?」
「ああそうだ。ついでに言っておくと静雄はもうあんたなんか必要無いんだよ、とっとと帰れ」
「言うねえ。要らないかどうか本人に聞こうか……ねえ、シズちゃん」
いきなり話を振られて俺は千景の後ろでびくっと身を震わせる。よく判らないが、この二人がいがみ合っているのは俺が原因らしい。おずおずと進み出ようとするのを、千景が腕で止める。
「千景……?」
「……シズちゃん、何時からそいつの事、名前で呼ぶようになったの?」
男が驚いたような、そして忌々しげにそう言う。何時から、って、ずっと前からだろう。記憶が無くなる前から。訳が判らない俺に、千景の腕の力が増す。そういえばこの男は俺が記憶喪失になっている事を知らないんだ。だから話がこじれるのか、という結論に達した俺は状況を説明しようと口を開きかけるが、その前に千景が早口に言った。とても力強い声だった。
「生憎な、静雄は俺と付き合ってんだ」
「……は?」
「あんたこそ諦めろよ、静雄はもう……あんたのもんじゃない」
刹那、俺の身体がぐっと引き倒され――気付けば、千景の唇が重なっていた。
照れるだとか、狼狽するだとか、それ以前に俺は何をされたのか理解出来ずに、それ故に特に拒絶もしないまま、唇が離れた時に「あ……」と声を漏らす事ぐらいしか反応をしなかった。幸いだったのは、通行人が誰も見ていなかった事。だけど、目の前の奴は違う。
全く抵抗しなかった俺を信じられないような眼つきで男は見る。その顔に、余りの怒りで赤みが差す。そして美しい声を低い罵りの言葉に変えた。
「……、ふざけるなよ……!」
一瞬で男は袖口から何か、銀色の影が飛び出した。街中で見慣れているとは言い難い、しかし身近にあるもの。さも当たり前のような顔でナイフを取り出して構える。それを見て取った千景も懐に手を突っ込み、俺に向かって叫んだ。
「静雄行け! 早く!」
「え……、い、でも、千景……!」
「良いからすぐ行け!」
千景の声が今までに無いくらいに張りつめて、切羽詰まっているのに気付いた俺はどうすれば良いのか判らず、戸惑った末に男に視線をやる。余裕が無く、強い感情に支配されているような男は俺に悲痛な声を挙げる。
「シズちゃん!」
「静雄!」
考えが追いつかなくなった俺は、律儀に千景の両脇に落ちていた袋を抱えて走り出す。何が起こっているのか理解出来ない。あの男は一体何なんだ、千景はなんであんなに必死だったんだ。答えは他でも無い俺自身が持っているという現実を俺は知る方法を持っていなかった。
昼が過ぎ、夜になっても千景は帰って来なかった。幾ら携帯に連絡しても繋がらず、あのナイフの男に何かされたんじゃないかと不安が襲い、家の中を何度も何度も何度もぐるぐると廻る。念の為、カレーも作っておいたのだが、食べている場合じゃない、食べるとしてもせめて千景の無事を確認してからと思っていた俺は、日付を越えそうになってもじっと待ち続けた。俺に出来る事なんて、たかが知れていたから。
「……!」
うとうとしかけた俺は扉が開く音で我に帰る。飛び上がるように玄関に向かうと、満身創痍と言っても良い程に疲弊した顔の千景が力なく片手を挙げた。
「千景!」
「ああ……無事だったか。良かった……」
「お前がそんなんでっ……! くそ、なんで……本当に、俺は!」
秒針の音を数え切れないくらい数えた俺は、孤独が怖くて思い切り千景に抱き付いた。千景はそれに心底驚いたらしく、かっちりと身体が固まったが無視し、喉の奥から枯れた声を漏らした。
「心配したんだぞっ……! 馬鹿野郎、馬鹿野郎」
「っ……静雄」
疲れ切っていたはずなのに、持ち上がりそうに無かった腕を、千景は俺の背中に回して強く抱き締める。不安だった、このまま千景が帰ってこなかったら、と。得体の知れないこの場所で、何も知らないまま、俺を知る人を失うのは堪らなく怖かった。
千景はそのまま俺に深く口付け、俺は玄関の床に背を打った。ぼんやりと千景のキスを受け入れていたが、その手が服の中に入ってきたのを感じて身体を震わせる。俺も馬鹿じゃない。千景が何をしたいのか一瞬で察する。
「ち……ち、かげ……!」
「静雄……静雄」
千景の指先が、俺の服のボタンを外す。怯えた俺に千景はキスを落としてくるが、尋常じゃない恐怖に、千景が俺の鎖骨辺りに唇を触れさせた時、思わず突き飛ばしてしまった。乱れた服の前を掴んで肩で息をする俺を見て、暗がりでも判るほど千景は哀しそうな笑みを浮かべた。小さく呟かれた声は、下手をすれば聞き逃してしまいそう。
「ごめん……ちょっと、……カッとなっちまった」
「ち、あ……ご、ごめ……吃驚、して……」
「良いんだ。俺が悪かったし。今日は疲れたから、このまま寝るな」
半分、俺を避けるように脇をすり抜けて千景は二階へ昇って行った。取り残された俺は少しずつ恐怖が引いていくのを感じながら、身を委ねる事が出来なかった自分を何故か嫌悪した。抵抗があるのは仕方がないことじゃないか、という言葉は今は忘れていて。
暫くしてから、今日の事は明日改めて聞こうと、既に日付が変わっている時に思い、身体を無理矢理起こして立つ。そこで自分が予想以上に震えている事に気付き、情けなさから切なくなる。そしてそこで、ポケットからバイブ音がして携帯を出すと、知らない番号が並んでいた。てっきり例の大量着信の男からかと思った俺は虚を突かれ、特に何も考えずに出てしまった。
「……? もしもし」
『シズ、ちゃん?』
余りの驚きに俺は文字通りぎょっとしてしまった。大量着信ではなく千景と殺し合いのような喧嘩をしていた男の声だ。動揺を隠せず声が発せない俺に対し、男は昼間の激情が嘘だったような落ち着いた声で言った。
『俺の番号だったら出てくれないと思ったからね。深夜にごめん』
「あ……いや、そんな事は……」
完全に文句を言うタイミングを失った俺はもごもごとそう言えば、受話器越しの男は何かを思案するように、ふと黙る。その真意が判らずに同じように言葉を失う俺に、その男はゆっくりと語りかけた。
『シズちゃんさ……記憶喪失になったってマジな話だったの?』
「らしい……あの、俺からも聞きたい事が山ほどっ」
てっきり千景から俺の事を聞いたのかと思ったが、男は俺を制すように少しだけ声を大きくした。
『仕事で東京をひと月も離れてたから……新宿に戻ってから、可笑しな噂を聞いて。君がある日、突然、誰にも何も言わず失踪したって。新羅もドタチンも田中さんすら居場所を知らなかった』
「しん……どた?」
『ああ、その三人とも俺らの知り合いだよ、安心して。それで、すぐに調べたら、金髪の男が病院に運ばれて、特に異常は見られなかったから、別の男が引き取りに来た……ってね。滑稽な話だと思って信じてなかったんだけど……シズちゃんが演技なんか出来る訳ないからね。ちなみに六条からは何も聞いてないよ、全部俺が自分で調べた事』
口ぶりから、やはりこの男は俺をよく知っているらしい。言葉がすんなりと俺の耳に入ってきて、色んな事を聞きたい俺は千景に刃物を向けた男への不信感や怒りを忘れた。
「えっと……よく判らねえんだけど、気付いたら病院に居て……付き添ってくれてたのが、千景だった。偶々、埼玉から遊びに来てたって。俺は中学以前までの事しか覚えてねえけど、あんたは、……言い方変だけど、俺の友達、か?」
『……違うよ』
「違う? じゃあなんだ? あと、なんか千景とも知り合いみたいな感じだったけど……あ、千景を間に挟んだ友達の友達、みたいな?」
『もっと違う、かな』
はっきりと、しかし何処か思わせぶりな言葉。今まであれだけぺらぺら喋っていたのに、俺は携帯を耳に押し当てながら思案する。はっきり、かつ遠回し。何に気付いて欲しいのだろうと思い、とりあえず少し前に疑問に思った話題を口にする。
「あのさ……めっちゃ電話してきたのってあんたか? えーと、おりはら……なんだったか」
『臨也。折原、臨也』
「あんたは何で埼玉に来たんだ? その……旅行に来たとか友達に会いに来たって感じじゃなかったけど……」
そう言うと、耳にはっきりと溜め息が聞こえて来た。
『何で、って。……そうだね、単純なシズちゃんには判りやすくストレートな言葉の方が良いか』
「何言って……」
『君は千景君に騙されてるんだよ』
突発的に投げかけられた言葉を呑みこむのには、自分では気付けないほど長い時間がかかった。
折原は俺が何か言うのを待っているらしく、息を潜めて無言を貫く。現実味の無い台詞がぐるぐると俺の中を回った。
「……なん、え? どういう事だ?」
『死ぬほどそのままの意味だよ。彼は、君が覚えていない事を良い事に、ある事ない事……まあ大体、ない事を、君に吹き込んだ』
「そんな、訳」
『無いって言い切れるの? 君には記憶が無いのに?』
折原の何処か小馬鹿にしたような声音に苛立つ事は無かった。ただ焦りはあった。今まで、ひと月という長く、短い時間を過ごしたが千景は人を騙せるような人間じゃない。何よりあいつは本気で俺の事が好きだ。一体、何処をどう騙されているのかが理解出来ない。
まるで俺は折原を試すように、深く息を吸ってから、こう聞いた。
「……なんの為に? 千景は俺に、嘘を吐く?」
その言葉に、折原は本当に一瞬だけ迷うような声を漏らしたが、すぐに、凛とした綺麗な声が俺の鼓膜を引き裂く。
『君を手に入れたいから。君が、……あの子は欲しいんだよ』
「意味が……」
余りの美しさに吐き気を覚えて視覚を閉ざす。でも聴覚は何処までも残酷に正常で、怖くなった。
『シズちゃんと千景君はね、付き合ってなんかいないんだ』
あんなに欲しかったものが、すぐそこにぶら下がっているというのに。
『だってシズちゃんは……俺の恋人なんだから』
俺から離れるなんて赦さない