「お前、誰だ?」

俺はこれを、チャンスだと思った。


明るい光がぐるぐると漂う。俺が立っている暗い場所を、その部分だけが仄明るくなる。それ以外に何も見えず、俺は条件反射のように腕を伸ばす。だが触れるか触れないかという内にそれは消えてしまい、合図にしたように他の光も消えてしまった。愕然と立ち竦む。光から伝わってきたのか微かな、本当に微かな暖かみだった。
視界が切り替わる。黒い世界から、白へ、白へ。白へ。

「……?」

眼が覚めて一番最初にした事は時計に視線を這わせる事だった。秒針の音で少しずつ意識が覚醒し、七時半だろうかと首を傾げたが、そうじゃない。一時間早い。八時半。完全に遅刻だった。

「……」

ちこくちこくちこく。何回か繰り返してようやく事の重大さに気付いた俺は飛び起きる。だが床に足をつけた瞬間に今日が土曜日だった事を思い出して項垂れる。最近、学校をさぼる事が増えてきた所為で曜日感覚が怪しくなってきた。腕を伸ばして強張りを解き、そしてようやくそこで一階から規則正しいリズムと食器を動かす音がしている事に気付く。
一歩一歩確かめるように階段を降り、台所に向かう。手馴れた様子で調理していた男が俺を視界に捉えて柔らかく笑んだ。

「おはよう」
「ん、おはよ」
「千景は卵、目玉焼きで良かったか?」

大きな手の中に小さな白いもの。翳して確認を取る彼に俺は頬を掻きながら頷く。

「静雄が作ってくれた奴ならなんでも食べるぞ」

本心とも冗談とも取れるような言い方をすれば、金髪長身の男は落ち着いた綺麗な微笑を浮かべた。まだそれを向けられてる事に慣れていない俺は寝起きだというのに血が熱くなるのを感じて、片手で器用に卵を割る男の背に抱きついた。
瞬間、強張る身体。不快感からではなく、単純に驚いただからだと思う。証拠に身を捻りながら、笑って嗜めるような声が振ってきた。

「こら、火ィ使ってんだぞ」
「俺の心臓は火よりも熱く燃え上がってんよ」
「馬鹿か」

こつんと菜箸の持ち手の部分で額を叩かれる。おどけて「あいたっ」と言ってみせれば、整った風貌を俺に向ける。照れくさくて誤魔化したくなり、皿に盛られたタコの形をしたウインナーをつまみ食いした。

「わざわざ作らなくても良いのに」
「何言ってんだ、世話になってんだからこのくらい当たり前だろ」

悠々とした口調で言う彼にバレないように影で苦笑して「そうか」と返す。本来なら東京都の池袋に住まう通称『自動喧嘩人形』……こと、平和島静雄と俺はとある事情から同棲していた。かれこれ一ヶ月ほどになろうとしている。二つ名と同一人物とは思えないくらい彼はとても大人しく静かで、優しい。前者ふたつは、此処一ヶ月間に限ってだけの話、だが。

「あ、昨日、お隣さんからキムチ貰ったんだけど好きだよな?」
「は? いや辛いのはそこまで……あ。……あ、ああ。好きだ」

冷蔵庫からタッパーに詰められたそれを見せながら声をかければ何かもごもごと言っていたが、すぐに気を取り直したように後半の言葉が投げかけられた。明らかに狼狽している姿に眼を細めて、ゆっくりと慎重に声をかける。

「無理しなくて良いぞ」

「……ごめん。俺、……好きだったのか?」


第三者から見れば不思議な問いだった。でも俺は心配そうな顔を真剣なものに変えて静雄ににじり寄る。何処か不安げでばつの悪そうな静雄の顔を覗き込んで間髪居れずに細い身体を、今度は正面から抱き締めた。
「ち、か」
「良いって、本当に。そういうのはぜーんぶ思い出してからにしようや。な?」
「……ありがと、な」

至近距離から見た静雄の顔は、他の誰も声高には言わないが十分に整って独特の色気に包まれている。何処か物憂げに落とされた眉、形の良い目尻にキスするとびくっと身体を震わせる。俺も静雄もまだ、慣れているとはいえない。どうしたもんかと視線をうろうろさせている静雄の、今度は唇にキスする。ぷっくりと押し当てられる感触に満足していると、静雄の空を迷っていた手が俺の袖を握る。そこじゃない、というように身体を引き寄せて腰に手を回す。俺よりも背の高い静雄は散々躊躇った末にぎこちなく手を背中まで置いてくれた。

「ん……」
「なんも、思い出さない?」
「……悪い」
「いやいや、俺は慌ててないから」

無邪気に歯を見せて笑えば、静雄も照れながらはにかむ。可愛いなぁと心底から思って、もう一度キスしようと上体を起こしかけるが、そこで静雄がいきなり大声を出した所為で叶わなかった。

「な、しず」
「卵焦げる! 焦げる焦げる!」

あっさりと俺の腕の中から抜け出した静雄はコンロに急ぐ。元々弱火だったお陰で黒こげとまでは行かないが、それても卵白の部分が濃い茶色になっているところもあって正直その部分は食べられないと思った。すぐに引っくり返して応急処置をしている静雄を見ながらそっと唇に指を這わす。こんな当たり前のように口付けを交わせるようになったのも、一ヶ月ほど前から。

『ごめん、不器用な俺でよ』
『なあ此処、何処だよ?』
「千景」
『お前が友達で良かった』
『なんでだよ、なんであいつなんだよ』
「おい、千景」
『俺にしなよ』
『赦してくれ……六条……!』

『居なきゃいけねえ時に、あの男は!』
「千景!」
「……あ、え?」

考え事が一気に遮断される。俺の両肩を掴んで揺さぶっている静雄に焦点を合わせ、素っ頓狂な声を出す。
ずっと立ち竦んでいたらしい俺を不審に思って声をかけても反応しない。そう言った状況になっているとようやく把握した時には、静雄は俺を見ながら心配そうな顔を隠さない。
なんでもないと首を振り、一瞬で蘇った強烈な言葉の群れを強引に振り払う。この後ろめたさと罪悪感を味わってなお、俺は解決しようとはしない。「腹が減って死にそうだー」とスキップでも刻みそうな上機嫌な声で言うと、首を傾げながらも静雄は笑って炊いたご飯をよそってくれる。米の白さが、卑怯な俺の眼を焼いた。


「静雄、米ついてんぞ」
「ん、何処?」

目覚めが良い所為か、此処数日よりも静雄は食欲がある様子だった。調理された食材が次々と形の良い口の中に吸い込まれていく。一足早く食べ終えた俺が頬杖を付きながら静雄に言うと、粗相が恥ずかしいのか手で一生懸命口の周りを拭っている。ずっと遊んできた女の子たちに抱くものとは少し違う感情が沸き上がり、愛おしげに眺めていた俺は机に乗り出して口の端を舐める。何もついていない、そこを。

「っ……おい」
「ごめん嘘」
「張り倒すぞ」
「静雄にビンタされたら正真正銘の顔面凶器だ」

にししと笑いながら語れば静雄はぶすっとした表情を逸らしてしまう。耳元が赤いながらも口元が半開きなのは、照れも含まれた戸惑いからだろう。何しろ俺たちは正確には付き合ってはいないから。なのに同棲しているし、軽いキスもする。俺と静雄のアルバムのページはたったの一ヶ月分しかない。だけど、物足りないとは思わない。静雄が確実に、少しずつ俺に惹かれているのを知っているから。

「なー、静雄って俺のこと好きだろ?」
「……んだよ、藪から棒に」

躊躇いがちに合わされる熱視線。途端にぞくぞくしたものが背筋を奔り、俺は心底眼の前の男に惚れているのが判る。静雄の一挙一動さに胸が躍る。綺麗で暖かな笑みに癒される。
そんな俺の心の揺れを気取られないように、あくまで俺は年下の余裕を構えてたっぷりと視線を送る。

「好きだろ? 好きだろ?」
「うっせーな。別に嫌いじゃねーよ」
「その言い方はつれないだろ、な、好き?」
「……まあ」
「まあ、って」

静雄の中でまだ、越えられない一線があるらしい。多分、静雄の中で整理されていないんだ。俺だって今まで女の子にしか興味が無かったのに、まさか自分より背の高い男にマジで惚れるなんて思ってもいなかった。ひと月前までは完全なる俺の片想いだったんだが、今じゃ静雄は俺の事を名前で呼んでくれるまでになっていた。キスも許容してくれた。腕はまだ俺に回してはくれないけど。

「俺は好きだぜ、静雄のこと」
「……そうか」
「信じてねーの?」
「信じるとか信じないとかじゃ、なくてさ……。なんか不思議っていうか、実感が沸かねえっつーか」

ふい、と逸らされる視線。申し訳なさそうな、何処か混乱しているような顔だ。俺は投げ出されていた静雄の手を握って詰め寄る。

「さっきも言ったけど焦らなくて良いから。俺はずっと待ってるよ」
「……」

不安げに揺れる瞳に笑いかければ、少しでも安心出来たのか静雄はゆっくり頷く。一緒に住むようになるまで、俺は静雄がこんなに寂しがり屋な事も、こんなに綺麗に笑える事も知らなかった。少しずつ静雄の存在を確かめるのは最早俺の生活の一部となっていて。
そんな俺は、言っている事の矛盾に内心で自嘲した。ずっと待ってる、それは本心だけど、俺は待ち続けたい。その旅路の終着点を見つけたくはない。待つ。でも、俺のところへ静雄がつく事を俺は願ってはいない。俺は静雄と同棲してから嘘ばかり吐いている。

「今日はなんか、夢とか見た?」
「うーん……なんか真っ白な部屋で、黒い影がちらちらしててよ……。触った感触がすっげー柔らかくて、なんかの服っぽかった。誰かの服を掴んだ感じ」
「えー、ひょっとして俺かなあ」

惚気た様子で言えば静雄も少しだけ照れながら笑った。静雄が此処に来てから、夢の内容を言うのは半ば日課になっていた。

「かもしれねえな。俺が知ってるのお前くらいだし。全身黒ずくめの奴だった。あ、でも黒髪だったかも」

無邪気に今日の「夢」を語る静雄。だが俺は食後のお茶を飲む手が思わず止まる。全身黒ずくめ。心当たりがあったからだ。そしてそれは俺じゃない。

(夢でさえあんたは邪魔するのかよ……)

ぎり、と脳内で音が響く。口の中で反響した歯軋りは静雄には届かなかったらしく、そのまま夢の内容を思い出そうと唸っているが、それ以上は突出した所も無かったのかあっさりと肩の力を抜いた。
そこでふと今日、自分自身が見た夢の事を思い出した。起きた直後には忘れてしまっていたそれ。寝過すくらいに文字通り夢中となっていたそれ。
静雄が見たという白い世界に黒い影。俺が見たのは黒い世界に白い影。シンクロしていそうな現象だったけど、俺はそれを喜ぶ事は出来なかった。
これは予想だけど、外れていない予想だと思う。俺が見たものは負の感情の中に沈んでいる静雄。そして静雄が見たものは、本質の中を犯す、あの男。

「よっと」

俺が考えている事など何も知らない静雄が食器を片付ける。かちゃりと食器の触れる音と水道の音。心地良い不協和音に俺は考え事に没頭した。


平和島静雄がある日、突然倒れた。虫の知らせか、偶然池袋に来ていた俺はそれを知り、病院に担ぎ込まれた静雄に付き添った。眼を覚ました静雄は、第一声に、

「お前、誰だ?」

と、俺に問いかけた。
最初こそはショックだった。決して短くも、長くもない時間を過ごしたというのに、静雄は俺の事を覚えていなかった。
彼が覚えていたのは小学校の低学年以下のおぼろげな己や環境だった。当然、両親と弟の事は覚えていた。だが中学生以降の記憶がすっぽりと抜け、成人してから出会った俺の事など覚えているはずがなかった。幾つか空っぽになった静雄に質問をする内に、俺の中に何かがふつふつと沸き上がってきた。

「静雄はなんにも覚えてないんだよな」
「ああ。とりあえず、えーと、あんたは?」
「六条千景。前は千景って呼んでたからそれで良いよ」
「そうか、千景」

俺は此処でひとつ、嘘を吐いた。

「悪いな……俺、なんも覚えてないのに……。あんたが付き添ってくれたんだろ?」
「水臭い事言うなよ、恋人なのに」
「……は?」

俺は此処でもひとつ、嘘を吐いた。

「整理させてくれ……その、俺、と、……千景は、付き、合ってた……ってことか?」
「そう。記憶無いから、覚えてなくてもしょうがないよな……でも、ホントなんだぜ」
「……マジかよ」
「同棲しようって話になってたんだけど……とりあえず、思い出すまで俺のところ来るか?」

俺は此処でも。此処でもひとつ……嘘を、吐いた。
俺は自分を嘘で塗り固め、見返りとして何も知らない静雄を手に入れた。池袋から離れさえすれば、バーテン服を脱ぎ、サングラスを外した大人しい彼を見ただけじゃ、埼玉で平和島静雄と判る人間なんて誰ひとり居なかった。

俺はこれをチャンスだと思ったんだ。

真に静雄を求め、真に静雄が求めている人物から彼を遠ざける。本当は静雄には意中の相手が居たというのに。所謂、略奪愛という奴だ。
罪悪感なんて感じなかった。あの男にはかけらも感じなかった。でも静雄には感じた。俺がお前に沢山の嘘を吐いていたなんて知ったら、傷付くだろうし、俺も怖い。こんな酷い事をしておきながら、自分の身が惜しい俺は余りにも醜く映るんだろうな。静雄が離れていって、元々の清い友人関係すら破綻するかもしれない。これは一種のチャンスで、博打で、命がけだ。あの男をはっきりと敵に回した時点で、俺は賭けに勝たなければいけなくなったんだ。

(静雄が一番大変な時に、あいつは来なかった。……なら、文句言う義理も無い。静雄は、……静雄はもう)

「千景ー!」

そこでまた、台所であったように意識が引き戻される。何時の間にか後片付けを済ませ、廊下からリビングに出て来た静雄が俺に声をかける。気を取り直して「どうしたんだ?」と朗らかに訊ねると、静雄は実に不思議そうな顔で視線を落とす。その先にあったものに、俺は色んなものが凍った。

「なんかさ、着信が大量に入ってンだけどよ……全部同じ奴からなんだ。すっげー変な名前、知らねえけどこいつも俺の友達かなんかか?」

静雄が言っている人物が誰なのか、丁度タイムリーな想像に耽っていた俺にとっては大打撃だった。それでもなお、判っていながら、縋るように引き攣る喉から音を漏らした。

「見せてくれ」
「……? おう」

知っている人がほとんどいない為に、余り機能していなかった携帯に然程の執着を持っていないのか、個人情報の塊をあっさりと俺に手渡す。祈るような気持ちで履歴を開く俺は、残酷な現実に一瞬だけ心臓が止まったような気がした。
間違いであって欲しいという願いで、俺はその名前を、極めて正確に発音した。


「着信38件……折原臨也」


僕の存在を君に塗りたくる快