ソファに腰掛けて息を吐けば一日の立ち仕事の疲れを自覚し不思議な安堵感に包まれる。
足を伸ばして肩を鳴らす。すると奥から涼やかな声が「ミルク切らしちゃったから珈琲で良い?」と聞いてきた。構わない旨を伝え、甘くしろよと苦笑しながら告げると、奥に居る奴も笑った気がした。
「シズちゃんは幾つになっても甘党だ。池袋最強が糖尿病だったら、ウケる」
野菜喰わねえお前は血がどろどろだ、お似合いだな。好き嫌いするなという意味も端の方に乗せても今度は返事をしなかった。都合が悪くなると黙るなんて、小学生か。
タイを緩めて腕をソファの上に投げ出せば、手の甲にぴたりと暖かいものが触れた。「はい」。俺にマグカップを差し出す臨也は此処数日の激務からか、よく見なければ判らない程度にやつれていた。白を通り越して青っぽいはずの顔は目元が薄く朱色に染まっている。
「……疲れてるな。休めよ、馬鹿」
問い掛けではなく、ゆるく断定したのは聞いた所でどうせそんな事無いよとその口が紡ぐに決まっているからだ。臨也は否定も肯定もせずに微笑んで、上から俺の頬に触れる。特別、冷え症という訳でもないのに、指先には熱が籠っていない。
「自惚れても良い? ひょっとして此処まで走ってきてくれた?」
少しだけ、驚く。どうしてバレた、という意味ではなく唐突に虚を突かれたから。
朝晩冷えてきた最近じゃ、上下長袖のバーテン服で活動しても余り汗をかかなくなった。お先に失礼するとばかりにするりと姿を消す太陽に無性に恋人に会いたくなって、元々今日は来訪する予定だったのも手伝って駅からはタクシーも使わずに走ってきた。とはいえ、汗臭くはないはずと思ってそっと触れられているものに手を添えた。
「気付いてない? ほっぺた、凄く熱いよ」
そうじゃないなら、今更、俺と居るだけで体温上がるくらい初心なの? とまるで茶化すように言われた言葉は何時もの白ではなく黒が入った液体を受け取る事で誤魔化した。初心ではないが、あながち間違っていない。鼓動の高鳴りは何時までも俺の耳の横で響く。成程、臨也の手を冷たく感じたのは単に俺が火照っていたからか。
一時的に臨也が自分の分のマグを取りに行く間、離れた温もりの代理を頼むように、絶妙なバランスで解けて行く白い螺旋を眺めながら、鼻孔を擽る香りにほう、と頬を染めた。
「機嫌良さそう。なんかあった?」
離れているのに、後ろ姿だけでお前は俺の事が判るのか、と若干含み笑いを零して、なんもねえよと返す。俺の上機嫌さが伝わったのか、「嘘だあ」と子供のような声がした。
「本当だよ」
言いながら口に広がる味を楽しむ。偶にはモカも良いな。可愛らしい名前。ミルクが描く綺麗な渦を崩して喉に通した優しい味に微笑んだ。お前は何を? と振り向きながら聞こうとしたら、あ。ゆらり、別のものが唇を塞ぐ。丁度奴も俺にキスしようと近付いてきた所らしく、余りにも自然に唇が重なり、至近距離でお互い眼を丸くする。それもすぐに微笑に変わり瞼を下ろす。すぐそこにあったデスクにカップを置きながら。僅かにずれた位置を触れながら正し、唇についたほんの僅かな残り香を吸うように距離を零以上に。ああ、お前の好きな芳ばしいエスプレッソ。
「まるで子供がするようなキスだね」
戯れに、甘いものを求めて啄むような。ソファ越しに振り向きざまなので首が痛く、頬辺りに唇を寄せて囁く。「こっち、来い」。可愛らしいお願いとは無縁の命令口調だが、意図的に含めた艶を魅せる誘いに臨也は素直に乗り、俺の隣に腰を下ろす。臨也がカップを机に置こうと身を乗り出したのを見て、細い体躯が眼に映り、つい腕を伸ばしてその身体を背中から収めていた。末端は冷たいが、やはり胴体は人の温もりが伝わってきて一気に安心する。白いうなじを眺めていると、先ほどとは違い奴が振り向く姿勢で「どうしたの?」と問いかけてきた。
「……普段なら、俺が抱き締めてるのに」
平素と違う体勢や、細身の自分が俺に完全に抱き締められている事が不満なのか少しだけ声が低くなっている。残念ながら俺の方が背が高いとか肩幅が広いのは数年前から変わっていない事実なので苦笑するが、きゅっと抱き締める力を強め肩口に額を乗せると何も言わなくなった。
俺の方が若干体温が高かったが、じわじわと臨也にそれが奪われ今では大差ない。温かい抱き枕に自然と安らかな気分になる俺は、眼の前にある、自分と違って全く痛んでいない生まれたままの色を手に取る。少し纏めて束をつくり口付けでも落とすように触れさせれば、喜んでいるのか嬉しいのか、俺の腕の中でぐるりと身体を半回転させた臨也の表情は明るく素直な感情に染まっていた。
「シズちゃん、今日は甘えただな」
俺の頭を抱えるように腕に収める男に笑みを零して身を任す。腕を背中に回してやればくっと密着していた身体が更に近付く。猫が髪を舐めるように、悪戯な口が俺の金糸を食む。咎めるように顔を上げ一瞬間を置き、「こっち」と言いながら、厚い唇を押し付けた。待っていたと言わんばかりに性急に舌が入ってくる。がっつくんじゃねえと握っている服を少し引っ張るが、舌ではきちんと応えている辺り俺もがっついてる。中途半端に浮いた体勢が腹筋を使って辛いから、臨也も道連れにするように背中を倒す。舌を抜くどころか唇すら一瞬も離さない辺り、俺は臨也に、臨也は俺に飢えている。
「……っん」
疲れているのに。眠たいのに。今は只管キスがしたい。お前と、臨也と。他でもない眼の前の男と。
零距離から指一本分ぐらいの隙間を開けて見つめ合う。僅かに上がった息と、覆い被さる臨也の黒い服の所為で暗がりに映える弱々しい銀の糸にどうしようもなく欲が掻き立てられる。殆ど中身の減っていない二つのカップがその象徴みたいで少し恥ずかしくなる。ソファですることは、余り無いから。
唇以外でも繋がりたくて、俺の顔の横に突っ張ってある掌をそっと撫で、下に潜り込ませて指間を埋める。臨也の「積極的だね」の言葉も普段なら照れて顔を逸らす場面だが、そう、俺の影響か、臨也の手は既に人並みの温もりを持っていて嬉しくなる。
「俺が居るだけで、体温上がるのか?」
今度は俺が言ってやると、にっと歯を見せた臨也は機嫌良くそうだよ、と短く応える。
「俺もだ」
先ほどのような誤魔化しではない。でも、言い切るには恥ずかしい言葉だったから、伏せられた眉と瞳には眼を瞑れ。まるで壊れ物を扱うような、愛おしげな目付きで見られて頬に熱が集まる。くそ、瞑れって言ったのに。すると臨也は眉を寄せて笑いながら、藪から棒に問う。
「俺って馬鹿かな?」
“シズちゃんに対して”。
言われなくても続きを理解した俺は空いている方の腕を滑らせて、首の後ろに回して引き寄せる。合わさった唇は長く堪能して、
「ああ」
カッコよく決めたかった俺の台詞は震えていた。
「馬鹿だよ」
―――御互い様
微糖コーヒー、品切れ中。